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「自由って、なんですか、の巻――『自由の社会学』予告編」

 

シノドス・メールマガジン2010/11/16配信/シノドス・ジャーナル掲載

 

橋本努201011

 


 

 近く、NTT出版より刊行予定の、拙著『自由の社会学』(201012月)の予告をかねて、本小論では、以前、NHKで放映されていた「おでんくん」の物語に則して、自由について考えてみます。

 

 

でんがらがった でんが でんが

でんがらがった でんが でんが ……

 

唄いながら、ゆかいに練り歩いてくるのは、アニメ・キャラクターのおでんくん。アニメ番組「おでんくん」の主人公である。

物語の舞台は、「おでん村」という、屋台のおでん鍋のなかに作られた架空の田舎町。毎回たとえば、ジャガイモの「ジャガー」、たまごの「ガングロたまごちゃん」、「だいこん先生」など、おでんの具をキャラクター化した登場人物たちが、味わい深い物語を繰り広げる。

主人公のおでんくんは、餅巾着(もちきんちゃく)の姿をしたなごみ系のやさしい男の子で、その愛らしくも、あどけない仕草に、私たちは癒されるのである。

そんな「おでんくん」の物語の一つに、「自由ってなんですか」の巻がある。今回は、この話に即して、自由の本質について、考えてみよう。

「自由ってなんですか」の物語には、おでんくんとよく似た少年で、「ニセおでんくん」というキャラクターが登場する。キザで、孤独を愛する逸(はぐ)れ者で、世の中を、いつも斜めから見ているような少年である。

そのニセおでんくんが、川で釣りをしている。すると、目立ちたがり屋の「ガングロたまごちゃん」がやってくる。そこでニセおでんくんは、ガングロたまごちゃんに、こう尋ねる。

 

「君は自由に生きているかい?」

 

ニセおでんくんによれば、奇抜なヘアスタイルで学校に行くガングロたまごちゃんは、自由ではない。

 

「魚だって、自由に生きているつもりだろ。だけど、あの魚は、この川の流れから外には出られないんだ。せいぜい、ちょっと飛び跳ねてみせるだけさ。」

「君だってそうさ。自由に自己主張しているつもりでも、本当はみんなの目を気にして、目立ちたいだけなんじゃない? それが本当の自由といえるのかい?」

 

というわけなのだ。自由に自己主張しているつもりでも、たんに目立ちたいだけにすぎない。それでは本当の自由ではない、という。

では、ニセおでんくんのいう「本当の自由」とは、何だろうか?

 

 

物語では、ニセおでんくんは、ガングロたまごちゃんに、「君もやってごらん、本当の自由が釣れるかもしれないよ」と言って、彼女に魚釣りをさせる。

すると、ガングロたまごちゃんは、釣りをしながら、自分も一瞬、「本当の自由」が分かったような気になる。

ところが物語のその後は、とても抽象的で、よく分からない展開になる。

ガングロたまごちゃんは、川で大きなリングをつり上げる。ところがそのリングを、主人公のおでんくんが拾いあげる。そしておでんくんは、ガングロたまごちゃんを、そのリングのなかに入れて、電車ごっこをしながら、二人で学校へと向かう。ガングロたまごちゃんは、いわば日常の学校生活へと、強制的に引き戻されてしまう。

そして最後のシーンでは、ニセおでんくんが、リングで輪回しをしながら、夕日に照らされた地平線を駈けていく。その姿は、物悲しくも哀愁を帯びているのだが、ニセおでんくんは、それが「僕の自由さ」と言うのだ。

 夕日に照らされて、輪回しをする。それが自由であるというわけだが、いや、実によく分からない展開である。いったい、ニセおでんくんのように、人目を離れたところで輪回しをしながら走ることが、どうして自由なのだろう。

強引だが、解釈として一つ成り立つのは、実は「本当の自由」とは、つまらない事柄であって、自由とは不自由である、ということなのかもしれない。そしてニセおでんくんは、どうもこの真実を知っているような気がする。

 

 

そもそも、鍋のなかの「おでん村」には、自由など存在しない。登場人物たちはみな、この村から逃れることができないからである。だれもが自分の運命から、自由ではありえない。登場人物たちにとって、もし本当の自由があるとすれば、それは「自分の運命」に気づくことではないだろうか。「本当の自由」とは、自分の運命を悟って、あきらめることではないだろうか。

このように考えてみると、ニセおでんくんの言うことも、すこし分かるような気になる。だれもが「おでん村」から逃れられないとすれば、自由を理解することは、哀愁を帯びた黄昏とともにあらざるをえない。ニセおでんくんは、もしかすると、そんな真実に到達していたのかもしれない。

むろん、そんな解釈ではおかしい、という反論もあるだろう。

では自由とは、なんであろうか。「自由とは何か」――それはとても奥行きのある問いである。浅く答えることもできれば、深く考えることもできる問いである。

「自由とは何か」と問われて、さしあたって、「したいことをする」とか「他人に迷惑をかけないこと」などと答えてしまうのは、おそらく平凡な日常生活から生まれる発想であろう。

これに対して、そのような意味での自由など、「本当の自由ではない」ことに気づき、「自由など存在しない」と悟るのは、ニセおでんくんのような逸れ者であったりする。

ここで立ち止まって考えてみよう。自由とはいったい、何であろうか。「君は自由に生きているつもりでも、それが本当の自由といえるのかい?」と問われたら、どのように答えようか。

ニセおでんくんが投げかける、自由の本質的な問題に対しては、社会学的なアプローチが有効であるように思われる。自由は、社会のなかで、あるいは人と人との関係のなかで、実現する。では自由は、実際に、いかにして可能になるのだろうか。私たち一人ひとりが、自由に生きることができる社会とは、どんな社会なのだろうか。

このように問いを立て直してみると、自由の問題は、社会をいかに構成するか(条件づけるか)という問題に開かれていくことが分かる。「自由とは何か」をめぐって、私たちは、実践的・政策的に考えていくことができる。

本書『自由の社会学』が試みたいのは、そんな社会学的な探究である。

 

 

ガングロたまごちゃんの例に即して考えてみよう。

奇抜なヘアスタイルをして学校に行くことが、本当の自由に結びつくような社会とは、どんな社会だろうか。

ニセおでんくんに則して考えてみよう。

ニセおでんくんのような逸れ者が、自由な社会で果たす有意義な役割とは、何であろうか。

自由とは何か。それを煮詰まって考えてしまっても、私たちは自由になることができない。真に自由に生きるためには、実質的な自由のための社会を作るという、そういう実践的な発想に開かれていかなければならない。自由への問いは、社会への問いでもある。

自由な社会はいかにして可能か。それをさまざまな視点から、考えてみる。それが「自由の社会学」という企てである。